昭和50年08月11日 朝の御理解
御理解 第33節
「お供え物とおかげはつきものではないぞ。」
ここでおかげと呼んでおられるのは御利益と云う事だと思うですね。おかげ御利益おかげは要らないとか、御利益は要らないと云う人は、私は一人もおらないだろうと思います。そこで私共が考えねばならない事は、そんならおかげはどう云う様な信心に、付き物であるかと云う事です。お供え物と付き物ではないと云う。そんならおかげをお互い頂きたい。そんならそのおかげは。
どう云う事にどう云う様なものに付くかと云う、もうこれならおかげは絶対だと、云うならば、おかげはついて來ると云うのは、どう云う在り方に御利益が付くかと言う事です。惟は私が日々お取次をさして頂いて、思わせて頂く事ですけれども、確かにおかげは信心が出来たとか、熱心にお参りするとか、お供えもすると言う事出は、おかげは成程付き物ではない。
とにかくお参りをして來る。お取次を頂くと言う事、もうそれだけでおかげは受けられるのが金光様の御信心です。いやお参りはして来なくっても、まあ誰に頼んでも良い様なもんです。問題はお取次を頂くと言う事です。ところがお供えをさせて頂かなければおられない、お参りもさせて頂かなければおられない。信心とは真とはと云う様に、信心を追求して参りますと、おかげの方も蔭が薄うなるです。お分かりでしょうか。
信心が言わば熱心になって來る。信心が少し分かって來る。そこに神恩報謝の心と云うものはいやが上にも募って來る。あれもおかげであったこれもおかげであったと分かって來る。そこに神恩報謝の心が参らずにはおられない、お供えせずにはおられないと言う事に成って來る。その頃になるとおかげの方が蔭を潜めて來る。不思議な現象です。今朝お夢を沢山、色々頂いとったけれども、目が覚めたら忘れてしもうておったから、どう云う事か分からなかったけれど。
只印象に残っておるのが、この私がお結界に使っておるこの大きな墨がある。この墨が真二つにこう真っ直ぐに縦しに割れた所を頂く。後先の事がどう云う事であろうかと思うて、思うて見るけど思い出さない。それで今朝から御理解を頂きますと、この三十三節である。三十三節はもうほんと何日か前にも頂いた御理解ではあるし、けども今日はだから、私が今朝からお夢に頂いておったこの墨が半分に割れておると云う事。それも横になら壊れると云う事がありますけど。
縦にこう云うなら小さい長い墨に、墨と云う事はどう言う事かと云うと、これは苦労すると言う事です。苦労すると言う事。真黒い墨を擦ると言う事は、苦労すると言う事です。それでその苦労すると言う事が、段々大きくあれば大きくある程、言うならば擦り溜めれば擦り溜める程、どう言う事になりますか。大きな字が書けると言う事になりましょうね。なら苦労すると言う事は、信心ではどう言う事かと云うと、お道の信心が分かって来たら苦労とは誰も言やしません。
難儀だ苦労とは言わん。お道の信心が段々分かって来たら、それを修行と頂く。苦労じゃない修行としてそれを頂く。そこで苦労をすり溜めれば、擦り溜める程沢山出来れば出来る程、大きな筆で大きな字が書ける事になる。苦労は少修行は少しして、信心の徳を受けたいと言う事ではお徳は受けられません。それこそ昔山中鹿之介と云う人があったそうですがね、若い時に月に向かって祈念を凝らしたと云う。大きな大願成就のおかげを受けなければならん。大きな願いを持っておる。
その為にはですねどの様な難儀でも受けて行こうと自分に難儀を与えて呉れと祈ったと言う事です。信心修行その信心修行には何がつきものかと云うと、お徳です力です光です。ですからどう云う、例えばそこに難儀がありましてもですそれを受けて立たせて頂くと云うのが信心です。苦労を求めると云うか修行を求めるとそれを現在合楽ではです、自分で求めての苦労ではなくて、与えられる苦労与えられる修行それを神乍らな修行として受けて受け抜くと言う事を、始終私が皆さんに申し上げる訳で御座います。
わざわざ求めなくってもよい、わざわざ水被ったり、断食はいけない。自分の上に自然と流れ着いて來るもの、自分の方へ流れて來るもの、それを私は神様が願い求められる修行だと頂いとります。それがどんなに自分で嫌な事であろうが、例えば苦いものであろうが、甘いものであろうが好き嫌いを云わずに、とにかくそれを受け抜くと云う姿勢。それにはね、信心の力、信心の徳信心の光が与えられる。その力が光がです自分で感じられる、自分で分かる。
だから信心が愈々尊いものであり、有難いものでありまた楽しいものであり、有難いものであると云う事になって來るのです。だから皆さんおかげを頂きたいと云うなら、あんまり信心は分からん方がおかげは頂くと云う事になるのです。毎日お参りをする信心御教えも頂く、そして分かる。分かってそれを行じないからおかげにならんのです。だから判らん先の方が良いと云う事である。只おかげであるならば御利益であるならば。日田の奥の方に高塚さんですかお地蔵さんがあります。
こちらのお地蔵さんは中々風変わりなお地蔵さん。人間が願い事を持たない者はあるまい。一つの願い事なら必ず聞いてやると云うお地蔵さんだそうですね。ですから大変お参りが多い如何に人間の願いと云う物が、まああの凄まじいものかと云う事が分かる。私も一遍あちらに菊栄会の方達と信心実習にお参りさせて頂いた。そりゃもう沢山の願い事を込めたその願い札と云うのでしょうかね、それが張って御座いました。
それはもう沢山のお参り。願い事何か一つだけならば、聞いてやろうとこういう、云うならキャッチフレーズが素晴らしい訳です。それに皆が吊られると云う事でしょうか。私は金光様の御信心は一事だけではない幾事でもです、例えば人間の難儀な問題、所謂おかげと云うものは、頂けると思う。信心が分からんでも只教えは守らなくっても頂かなくってもお供え物とおかげは付き物ではない。云うならばお参りとおかげは付き物ではないと云う事も言える。
お参りはしなくても、お供えはしなくても、おかげは頂けるぞと金光様は仰っとられる。そのおかげの邪魔になるものは、何かと云うと一生懸命打ち込むと云う事が返って邪魔になる、返って分からせて頂く事がおかげの邪魔になる。だからおかげだけならね、御利益だけならば、私は高塚のお地蔵さん事は要らん。金光様で只わけは分からんなりにお願いしますと云うだけでです、おかげになると思う。
その辺のところが私は何と云うですかね。まあ人間が純とでも申しましょうか、こりゃもう不思議ですけどね、これはもう信心を分かろうと努めない人、もう初めから努めない。合楽でも或不思議な人があります。もう椛目の時代から、もう二十何年、毎日参って來るのです。第一お供え物をしないです。そしてもう願いと云う事はもうあらゆる願いをされるです。しかも夜中もないです。所がおかげを頂くですね。それは信心を分かろうと努めないからです。
その人は大変学問した人ですから云うならば色んな知識を沢山持っている人ですけれども、この信心の事だけは判らうとしないからもう無知と云って良い程にその代わり純真です。そうですね月の内に五六回位もうそれこそ百円位のお初穂される位です。その代わりお願いと云うものは千万金、それこそ人の命に拘る様な願いを沢山されます。おかげ頂かにゃ何十何年毎日参っちゃ來ませんです。
もう間違いなしにおかげを頂くです。何時も朝の御祈念が終った頃、もう皆さんが殆ど帰られた頃、何時も参って参ります。しかも毎日です。しかも何々大学を出たと云う、云うならば大変知識を持った人です。ところが信心の事だけは判ろうと努めないです。暫く私も云いよりました。信心を判らにゃ、御理解を頂かなければ、けれども馬に念仏と云うでしょうかね、柳に風でもう受け流して行くだけです。
そして願い事だけは実に行き届いたお願いをされます。だからおかげを頂くと云う事はね、お供え物と今の方の事をもちっと具体的に云うと、もっと分かるですがね。毎日参って来なさるから、そして御理解は頂きなさるから、おりがこつばあげん悪う云いござると、悪う言いよる訳じゃないです。素晴らしいと言うている訳です。純なんです。純真なんです。もう信心を分からん事に努めとると言う感じです。
だからお参りさえすりゃ、お願いさえすりゃもう絶対おかげ頂くですこの人は毎日。それはもう不思議です。お互いの場合はなまじっか信心を分かろうとして、また御理解を熱心に頂いて、ああそうかそうかと、心の中に合点させて頂き、それを実行しないからおかげ受けられん。一遍ねこのマイクの入らぬん時にね(笑い)お話をするなら、もう本当にね、間の辺りに見ておかげと云うものは良く分かるです。実に純真と云えば純真、純です、心は只神様にお縋りすると云う事だけしか知らない。
それに対する御礼と云う事すらも、本当から云うと分からない。それでおかげを受けておる。しかも二十年間おかげを受けておる。以前他所に勤めておられるが、その頃は電話でお願いしてきました。野球があります。どうぞ先生今度一遍勝たせて下さいと云った様なお願いがありました。必ず勝つです。その次またあります。先生今度一遍またそう云うです。その頼み方の純真な事です。まあ、云うならば童心と云いますかね。又おかげ頂くです。成程お供えとおかげが付き物でないと云う事が分かります。
けれども、お互いの場合は信心が分かり過ぎっておかげが受けられない。というて心に力を受けておる、心に光りを受けておる。これがお徳であろうかと云う様なものを、云うなら小刻みでも良いから、これに感じて行っておるかと云うと、それも感じていってない。云うならば、中途半端である。信心はどこまでもです、矢張り金光様の御信心はお徳を頂くと云う事が本筋です。
私はこの三十三節のおかげとあるこのおかげは、どの御教えを頂きましてもおかげと云うものは、お徳に通じると云う意味で云うておられると思うのですけど、この三十三節だけはいわゆる御利益の事を云うてあると思うです。その御利益と云うのは信心の分からん方が、高塚のお地蔵さん的な信心で向こうて來る方がおかげを受けると云うことです。けれどもねどんなにおかげを受けましても、それは人間の幸福には絶対つながらないと云う事です。信心に依って真実の幸福を得たい。
しかもあの世までもこの世まで残しておけると云うものを頂きたいと願わない者はない。お話を頂けば頂きたいと思うけど、五体が云う事を聞かん。ここは辛抱せんならんと云う時でも辛抱しきらん。ここは守らなければいけないと云う事を守らない。これでは心に力も、心に光も受ける事は出来ません。時には皆さんがです、本気で教えを頂いて、自分でもこれが信心の力だ、徳だと感じなさる事もあろうけれども、いわゆる信心の喜びと云いますか法悦です。
惟は信心を頂かなければ頂けない信心の悦びと云うものが湧いて來る。それなんです。だからそれを育てて行く事がお道の信心です。そこで私共がです難儀を難儀とせず、言わば普通で云う難儀を修行として受け抜いて行くと云う行き方から信心の力が受けられる。お徳も受けられる。そのお徳に伴うて來る所のおかげ、それを皆さんは断片的に頂いとられるのです。ああ親先生分かる所が分かればおかげ頂きますと良く云うでしょう。ですからそれが断片的な事ではなくて。
それを続けて頂いて行くと云う所にお道の信心の値打があるです。今日は皆さんおかげ、御利益と云う事は信心は分からん方がおかげを頂くと云う事です。御利益と云う事。ところが教祖様が御理解第三節に仰っておられます。願う氏子におかげを授けと。只願うだけ何も分からない。そのおかげを授けて下さるけれども、おかげを受けたら、理解申して聞かせと仰せられてあります。ですから教えを頂かなければならない。そういう一つのシステムがね、お道の信心にはある訳です。
皆さんはだからその御理解をこうして受けられている訳です。この御理解を受けるとなら、どう云う事になるかと云うと、信心になるのです。云うならば神様へ向ける心と言う物がです、お供えとおかげはつきものではないけれども、お供えはせずにはおられない。お供えは自分の命だ、自分のおかげを有難いと云う心の証です。と云う事になって來るときにお供え物が生き々と生きて來る。そのお供え物がそのまま血に肉になると云うことは、お供え物がそのまま徳になる。それは自分の命だからです。
信心が分かって來ると神恩報謝の心を、只有難い勿体ないと云うとるだけでは済まされない。その有難い勿体ない、それを何とか形に現して行くのがお供え。それはお供え物はそのまま、百円のお供えをすれば、そのまま百円のお徳になる。千円のお供えすればそのまま千円の徳になる。そういうだからお供えでなからなければいけない。まあこの御理解三十三節とは、実は関わりない様で実は私共は本当におかげ頂いて、本当の意味に於ての、いわゆる力を受けたい。
徳を受けたいと云う事になるとそうなります。その徳にその力に伴うて来るおかげは、願わんでも頼まんでも、云うなら人間の幸福の孝行の全てがそこに集まって來るのであり、足ろうて來ると云うのがお道の信心です。もう願う事がないと言う事はありません。今の例をもって申しました様に、毎日毎日願う事はいっぱいあるのです。しかも新たな願いです。新たな願いなんです。
それでもです信心が分かろうと努めない。わざわざ努めないと言う事はないですけれども、と云うて努めて信心は分かるまいと努めてあるかの様に見られるのです。それでおかげは一つ限りじゃない。二つ限りじゃない。もう二十数年間おかげの頂き続けであります。これは或意味合でおかげを受ける為の、まるきりこの人は手本の様なものです。一遍合うて話してご覧なさい。本当に純真無垢ですから、しかも他の事を話させるなら、それこそ最高の学府を出た方ですから、もう実に知識が豊です。
けど事信心の事に限っては、もう幼稚園も幼稚園、本当の言わば純真無垢です。只赤子が母親の膝に這寄って行ってお乳を求める様なものです。だから与えられるのです。雑がない雑念が無い。お互い少しばかりかじってから、少しばかり分かってからと云う様なところにおかげが頂けなくなる様な向きもあります。ですから私共がです、日頃頂く御教えから頂きまして、云うなら信心の徳を身につけたいと云う。本気での云うならば信心一本にならして頂いて、徳を受ける力を受けて行くと云う。
云うならば稽古をさせて頂くことに依って稽古が実って來る。稽古が成就して來る。自分の血肉になって行きよるのが分るそれが楽しみ、それが有難いと分かって來ると、その力にその光におかげが伴うて來る。これは願わんでも頼まんでも頂けれるおかげ、あの世この世を通してのおかげになって來る訳で御座います。私は今日はその墨が半分になる所を頂いて淋しい事だな、これは苦労がなくなるのだろうか、苦労が半分になるとするなら、これは淋しい事だ。
云うなら修行が少なくなると言う事だから、そういう風に思わせて頂いたそしたらそれはどう云う事かと云うと私のこれは場合です。皆さんはそれを修行と云い皆さんはそれを苦労と云うけれども、私の前にはもうそれは苦労でもなからねば、修行でもないそれはもう当り前の事として頂けると言う事と気付かせて頂いた。だからそれでも半分残っとる。半分と云うが三分の一位にこう割れている実際頂いたのはそうだった。
だからあとまあ三分の一位の信心が成就したら愈々私には苦労がなくなると云うものじゃないでしょうか。例えば先生もうお辛うあんなさろう、毎日ずうっと座りずくめであんなさるからと、それを皆さん苦労と見て下さる。修行と見て下さる。とするか私自身はそれを苦労とも修行とも思っていない。もう当り前の事として出来る様になると云う事。一番尊い事は例えば、修行を修行と思わんで有難く合掌して受けて行けれると云う事が最高だと云う事が分ります。
どうぞ。